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神田神保町・小川町・淡路町界隈 1) [茶道]

  我が家の本棚には、色あせた独和辞典が使われることなく蟄居している。表紙を開くと、1963年神田神保町三省堂本店で友人Kと求むと記されている。折しも、東京オリンピックの前年、高校生活が始まった時のこと。それから半世紀余の歳月がながれた今、縁あって、仕事場が神田小川町。古本屋街はもとより、ビルに挟まれて昭和から息づいているお店が目に留まる。三省堂と背中合わせに「御菓子処ささま」がある。
御菓子処 ささま noren02.gif

  主菓子は、季節折々にご主人の心の籠った趣向が凝らされている。水無月に入り、水羊羹、あじさい、青梅や麦秋もある。今の季節、四国や九州に出かけると車窓からは、麦が頭を垂れて黄金色に色づいている。麦秋とはこれなのかと実感できる。
ささま mizuyoukan.jpgささま ajisai.jpgささま aoume.jpgささま 麦秋 bakushuu.jpg
  

根津美術館 かきつばた屏風と初風炉 [茶道]

表参道から徒歩5分。風薫る5月に相応しい好天の1日を過ごしました。
1年半ぶりの訪問でした。前回は、2009年10月17日。2006年から3年半にわたり改装のため休館されていましたが、再開館の記念行事が行なわれているときでした。その記念行事の一環としてドナルド・キーンの講演を聞く機会がありました。
根津美術館の素晴らしいのは、その庭園。初代根津嘉一郎の旧邸であった園内には、池を取り囲むように、4つの茶席(弘仁亭、斑鳩庵、閑中庵、一樹庵)が設えられ、四季折々のお茶の集いを演出できるように見受けられました。
 美術館内では、国宝「燕子花図屏風」(尾形光琳)が展示されていましたが、庭園に出ると、折りしも水辺には、対をなすように、燕子花が見事に咲き誇っていました。
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秋の紅葉、雪舞う日のたたずまい、移り行く季節を静かに演出する幽山渓谷のたたずまいに、いつしか心が和み、都心にいることを忘れさせてくれました。
 館内のもう一つの楽しみは、嘉一郎がお茶会で実際に使ったお茶道具が2階の茶室に展示されていること。今回は、初風炉のしつらえ。青葉の候が、清々しく演出されていました。
 嘉一郎が、この地で初めての茶会(初陣の茶会)を催したのが59歳のとき。昭和15年1月4日81歳で没する直前の、昭和14年12月23日の歳暮の茶会まで、生涯を通じて晩年は、お茶の集いを催したと茶会年表に記されていました。
 根津美術館のもう一つのお薦めは、緑のなかで余韻を愉しめるカフェNEZACAFE、機会があれば、是非、一度お試しを。

茶道(4) [茶道]

帰国後は、自由が丘にて故佐方宗礼先生、入江宗敬先生のご指導を仰いでいる。佐方先生は、海外でのお茶の普及活動にも積極的に参加され、ワシントンの桜祭りで、先に触れたNY裏千家の山田先生と出会われた。この出会いが、めぐり巡って、今、ご指導いただくご縁へと紡がれている。入江先生がトルコへお茶紹介の旅をされる際、東西を繋ぐ都市イスタンブールを羽織、袴で歩く貴重な体験のさせていただいた。
 1995年に長野県蓼科の山小屋に茶室を設えた。庵の名を、「松風」と命名。2006年には、NY裏千家の山田先生をお正客にお迎えした。竹馬の友で小料理やを営む友情出演で懐石料理を準備し、お茶会を開いた。素晴らしい客組みで、宴は夜更けまで続いた。そんな集いも、いよいよお開きと名残を惜しんでいるとき、思いもかけず、山田先生から、中川宗渕老師筆の掛け軸を頂戴した。

    松 老いて 寧ろ 長閑(のどか)なり

松風と銘打った茶室に、ふさわしい軸と大切にしている。
茶室が完成してから、早や十五年。いろいろな仲間をお招きし、季節折々の風情を楽しんでいる。お茶会にと、花入れや、茶碗の焼き物を供してくださる仲間がおられる。年々腕をあげられ、先週、8月7日に催した朝茶事にあたり、花瓶を贈ってくださった。野辺に自生する朝顔を生け、茶筅で朝露に見立てて水を掃くと、早朝の高原の冷気漂う集いを、見事に引き立ててくれた。
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また、同じく仲間には、葉山のお寺さんに嫁した方がおられる。そのお庭には、毎年、立派な竹が生え揃う。折々、根っこから切らせていただき、数年乾燥させて、竹の花入れや、蓋置きの素材にと頂いている。
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茶室 「松風」は、標高1350mに位置する。実社会での自らの思いの実現は、牛歩の歩みながら、次の心境に一歩でも近づけるようにと、地道な精進、努力を重ねていきたいと、日々誓っている。

    ゆくみちは 瀧なす汗を 流せとも
              のぼりて涼し 松風の音
                          (清香院)

  平成二十二年八月盛夏

茶道(3) [茶道]

ニューヨークに勤務した頃(1980~1989)、マンハッタンにある裏千家道場を週末には訪ねた。お茶室は京都から派遣された棟梁により立てられていた。茶室は、不思議な空間だった。そこはマンハッタンの喧騒と人種のるつぼのど真ん中にありながら、世俗からは隔絶された世界だった。紅葉たけなわの季節には郊外にお茶仲間とドライブし、湖畔沿いにて、野点のお茶を楽しんだ。マンハッタンから北上したキャッツキル山中にある大菩薩禅堂金剛寺では、「茶と禅」が主催され、裏千家ニューヨークの山田先生ほかGlen宗清先生方等が参加された。座禅後の講話には、この禅寺建立に力を注がれた中川宗渕老師が、三島龍沢寺から馳せておられた。洒脱な人柄と英語・日本語を織り交ぜた語り口は、集った米国人を中心とする異国の人々を魅了しておられた。湖畔に座禅される姿そのものが、温かな圧倒的な存在だった。1984年に他界され、その分骨式が湖畔で行われた際には合掌に伺った。その日は、米国独立記念日。マンハッタン・ブルックリンブリッジにて行われた花火大会を観るために摩天楼に引き返し、夜空に繰り広げられる天体ショーにご冥福をお祈りした。
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茶道(2) [茶道]

最初の職場のお茶室は、休憩室を兼ねた和室で、女子ロッカー室の後ろに位置していた。構造上、和室に入らんとすれば、戸外からノックをし入ることを請い、一端和室に入れば、きぬ擦れの音に雑念を振り払わねばならぬ環境であった。当然のことながら、茶の道の教えを請わんとするその動機を、不純なりと、揶揄する向きも少なからずあった。四十年を超えた今日、少々、胸を張って、不純な動機だけではなく、お茶の魅力への予感を誠実に追い求めていたことを、折々の思い出に絡めながら綴る。
 オランダへトレーニーとして勤務(1973~1975)していたある日、最初の職場でのお茶の恩師が、ロッテルダムに立ち寄られた。宿泊先のホテルにご挨拶にうかがうと、ロビーのソファーに、着物姿でちょこんと正座をして出迎えてくださった。日本から持参した茶箱(点前道具一式を仕込んだ携帯用の箱)で一服差し上げたいと申し出たところ、先生のお部屋に通していただいた。二人でダブルベッドの上に正座し、ボーイにお湯を運ばせ、揺れるベッド上でお茶を差し上げた。心から喜んでくださった笑顔が忘れられない。帰国のご挨拶にお伺いした際には、不治の病の床に臥され、お話をされることは、最早叶わなかった。そんな中、ロッテルダムの一服を喫茶した思い出を懐かしく語り合った。弱った体を何とか起こされんとするお姿は、あの異国で交わした一服が至福の瞬時であったことを全身で表現されておられるようで、胸が熱くなることを禁じえなかった。

茶道(1) [茶道]

昭和四十五年、初めて実社会に出た職場で、茶道を始めた。縁あって軽い気持ちで始めたお茶の道だが、あれから、四十年の歳月が流れた。今では、東京は神谷町にある光明寺というお寺さんで、月に二回、職業、世代を超えたお仲間とのお茶のお稽古を共にし、学ぶ機会を楽しんでいる。
 http://www.komyo.net/web/kamiyacho.html 
今日は、八月十五日。終戦記念日。猛暑がぶり返してきた。お茶の世界では、この猛暑・酷暑は、冬への備えに欠かすことのできない大切な時節となっている。炉から、燃え尽きた炭に汚れた炉灰をあげ、樽に移す。水を注ぎ、何度も灰汁抜きをし、水も澄んできたところで、炉灰を炎天下、ござに広げる。そこに番茶や丁子の煮出し汁をかけ、色づけをしては、手で灰を揉みほぐし、天日干しをし、乾いたら、また、煮出し汁をかけ、日長この作業を繰り返す。陽も西にようやくかたぶく頃、灰を篩いにかけ、甕に仕舞い、冬の到来を静かに待つ。
 厳寒の二月、茶室には、蝋燭の灯のもと、夜長、客達が集う。炉には、赤々と炭が熾り、掛けられた釜は松籟の音を奏でる。香を聞きながら、集った客達は、五感を研ぎ澄ませ、これから催される一座建立に静かな期待を寄せる。ホスト役の亭主は、釜を外し、新たに炭をくべ、甕から出した灰を、手際よく灰に撒き添える。その瞬間、客人たちは、あの猛暑の中、この日のために準備を重ねた亭主の思いに心を重ね、懇ろに、「ご丹精を込められた見事な灰ですね」と労いの言葉をかける。その一言には、万感の思いが込められ、それ以上の言葉は不要だ。

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